怒りの段階

怒りの段階

グリーフワークの2つ目のプロセスです。
自罰、他罰、悲嘆、号泣、不安、恐怖

葬儀など、儀礼的な必要な用をこなした後から、激しい動揺が起こります。
この場合も、ひどく冷静に見えることもあれば、激しく泣くというような行動として現れることもあります。
激しい感情が出てきた時には、ありのままに表現し、抑えない方がよいとされています。 やはり、まだ現実を受け入れられません。
無意識に犯人探しをして、その人に対しての怒りを募らせる場合もあり、また、自分を強く責めたりする場合もあります。
軽い躁状態になり、さして好きでもない異性と付き合ってしまうこともあると言います。

これは私の主観ですが、自死遺族の場合、この怒りの段階が長引く傾向があるように感じています。
下記の私の場合は、実に7年続きました。
以下はまさに怒りに満ちた文章ですので、お気持ちの不安定な方は、今はお読みにならない方がいいかと思います。

私の怒りの段階

葬儀の帰り道、両親が自宅へ帰る際、道を間違えたため、帰宅が遅くなりました。
私は一人暮らしで、先に自宅へ到着していて、母からの「今、着いたよ」という電話を待っていました。
あまりに連絡がないので、自宅へ電話してみても、誰も出ません。
どこかで事故に巻き込まれたのではないか? 私は一人ぼっちになってしまうのか?と、強い不安を感じました。

この頃から、無意識の犯人探しが始まりました。
両親と私が選んでしまったのは、義弟でした。
ただ、母は統合失調症で、被害妄想を持っていました。
それがダイレクトに義弟に向かってしまうのは、さすがに悪いのではないかと、父と相談して、母の怒りを、最期に妹を診察した医師へ向けるよう、折りに触れて、言葉などでコントロールしようとしていました。

義弟が選んでしまったのは、母でした。
母が統合失調症だというのは義弟も知っていたので、それが妹を苦しめたのではないかと思ったようです。

私は、義弟も、医師も、そして両親のことも、心の中で憎んでいました。
そして、「両親は、私が死んだ方がよかったと思っているのではないか?」と思っていました。

一度だけ、母が義弟に向かって、「お前が娘を殺したんだ!」と言ってしまったことがあります。
義弟は、本当は母の病気のことを指摘して反論したかったのだと思いますが、私の顔を見て、思い留まってくれました。
ただ、その日の夜、義弟から私のもとへ電話がかかってきて、3時間ほど、辛い気持ちを訴えられました。
この頃は、かなりひんぱんに義弟から電話があり、「頼れるのはお義姉さんだけだ」と言われていました。
私もまた、甥に悪い影響が出ないように、義弟を支えなければという思いがありました。
義弟に対して怒りの感情を持っていながら、義弟をいたわるという日々でした。
ただ、自分のことを考えなくて済むので、私にとっては、それほど苦痛ではありませんでした。

ですが、四十九日を過ぎた頃から、義弟のもとに、妹の友人が頻繁に出入りするようになりました。
そして、義弟と付き合い始めました。

私と義弟は、このことをきっかけに、大喧嘩をしました。
その妹の友人は、妹が特に強いコンプレックスを感じていて、「私は○○ちゃんには敵わない」と言っていた相手だったのです。
義弟は、まだ妹が元気だった頃、集合写真を見て、「この中では○○ちゃんがいちばん可愛いね」と言ったことがあり、妹は、密かに傷ついていました(妹も写っていた写真です)。
そして彼女は、恋愛に強くこだわり、また奔放なタイプで、妹が亡くなる直前に、彼女の浮気が原因で彼と別れたばかりだったのです。

妹が「やっぱり○○ちゃんには敵わない。○○ちゃんなら、パパとちびを幸せにしてくれるよ」と悲しそうに言っているのが聞こえるような気さえしました。
「なぜ、妹が亡くなった後まで、妹のコンプレックスを刺激するような行動をするのか!?」
私は、義弟と彼女とに、強い憎しみの気持ちを抱きました。
それは、これを書いている2008年、妹を亡くして8年経った、つい先日まで、ずっと抱いてきた思いです。
どうしても、この2人だけは許せない、殺してしまいたいと思いました。

ただ、上の項目に書いているとおり、さして好きでもない相手と付き合ってしまうような行動も、どうやらあるようです。
義弟は、誰かにすがりたくて、一生懸命だったのかもしれません。
そんな時に、たまたま彼女がそばにいた、というだけだったのかもしれません。

また、後の項で述べることですが、「立ち直りの段階」では、「○○さんは、死にたくて死んだんだから、きっと向こうで幸せにしているに違いない。だから、私も幸せになろう」という発想の転換が見られることがあるといいます。
彼女は、妹の友人とはいえ、グリーフワークが、私が想像していたよりも早く、完了しかかっていたのかもしれません。
それが、新しいものへの関心、つまり新しい恋愛を始めるという形で現れたのかもしれません。

ですが、私はまだ、怒りの段階にいました。
彼女は私に、彼女なりの発想の転換を、そのまま口に出してしまいました。
「だから、もし本当に妹さんが苦しんでいるなら、幽霊となって、私に直接言いに来るはず。お姉さんに言われる筋合いはない」とまで。
上に書いた通り、彼女は彼がいても浮気をするタイプ(それを繰り返していました)だったので、私から見ると、義弟の後妻、つまり甥の母親になるには、ふさわしくないと感じていました。
というよりも、結局彼女には結婚するつもりはなく、ただ、次の相手が見つかるまでの繋ぎとして、義弟を利用しているだけではないかと思いました。
甥が彼女を大好きになってしまった後、彼女が別れると言い出して、甥から離れてしまったら、甥が傷つく。
そんな正論(?)を振りかざして、義弟と彼女に怒りを向けていました。

義弟は義弟で、このように繰り返していました。
「俺が幸せになるのが子供のためだ。子供の幸せのために自分が我慢するなんて、ありえない」
「俺は俺の彼女を選ぶのであって、子供のまま母を選ぶのではない。俺が誰を選ぼうが俺の勝手だ」
今思えば、再婚なんて、義弟にとっては、来るか来ないかもわからない、遠い未来の話で、相手は誰でもよかったのでしょう。
この時、子供を心配する余裕さえ、失っていたのでしょう。

私の父は、「こうなったら、一日も早く、再婚した方がいい」と義弟に勧めていて、それを見ていたので、私は、義弟の彼女=甥の新しい母と、即座に結び付けて考えてしまったのだと思います。
父も父なりに、甥の成長に支障がないように、頑張っていたのだと思います。

私は不思議と、妹に対する怒りの感情を持っていませんでした。
義弟は、「俺達を置いて逝ってしまった」と、怒りの感情を持っていました。
私は内心、それに反発して、「あなたが妹を殺したくせに」と、怒りの感情を持っていたのです。

私なりの、怒りの段階。
義弟なりの、怒りの段階。
彼女なりの、立ち直りの段階。

当時、グリーフワークに関する知識のなかった私達は、ここで、決定的な別れをすることとなってしまいました。
それぞれの立場の違いや、悲しみ方の違いについて思い知らされながらも、義弟の行動が理解できませんでした。

そして数年の冷戦を経て、義弟に「俺がそちらと連絡を取りたくなくなったのは、全部お義姉さんのせいだ。もう二度と連絡してこないでくれ」と言われたことで、その後、私達は甥に会えなくなってしまいました。
義弟が育った環境も、辛いものだったことを知っています。
義弟を、結果的に、甥と2人きりで外へ追い出してしまったことを、今は本当に悲しく思っています。

身近に自死が起こった後、遺された方の人間関係が激変してしまうことは、決して珍しくないことだと言います。
こうした、立場や感じ方、立ち直りのペースの違いなどとも、関係があるのかもしれません。

私がサイトを開設したのもこの時期ですが、当時は、「私は自死遺族です。辛いです」ということよりも、「皆で義弟を責めて下さい」という意味合いの強い、まさに怒りの段階ゆえの行動でした。

その一方で、うつ病についての本や自死についての本を相当読み、妹がどんな気持ちで自死したかを探求していました。
妹の死の瞬間に立ち会えなかったからと、妹が亡くなった様子を、詳細に想像しようとしました。
このあたりから、私なりの「立ち直りの段階」も始まっており、妹はうつ病の症状によって病死したのだと思うこともできるようになりました。
ただ、それゆえに、妹の死を正当化しようとし、妹を悪く言う人を、一人残らず憎み通して過ごしてしまいました。

そして、正直に言います。
私は、妹が最初の自殺未遂をしてからの3ヶ月、ずっと、落ち着かない生活を送っていました。
「もしかして、今日こそ死んでしまうのではないか」と、毎日不安に思っていました。
忙しい仕事をこなしながら、妹のためにと思っていろいろと手を尽くし、甥の面倒も見ていました。
「もう、こんな生活は嫌だ」と思ったこともあります。
ですから、妹の死を知らされた後、深い悲しみを感じると同時に、心のどこかで、ホッとしてもいたのです。
「もう、不安な毎日を過ごさなくてもいい。終わったのだ」と。
そして、そんな風に思う自分のことも、不謹慎で妹に失礼だと、とても憎んでいました。